1862年、陳富春と妻の陳劉氏は四川省成都の北門にある万福橋のそばに陳興盛飯舗という食堂を開きます。しかし、店主の陳富春は早くに亡くなり、残された妻の陳劉氏(※1) がお店を切り盛りしていました。
※1 陳は夫の姓、劉は結婚前の姓。清朝末期の呼び方で、自分の姓の前に夫の姓をつけて既婚婦人を呼んでいた。
労働者と参拝者が行き交う場所
当時の万福橋は成都北門の交通の要所で、かつ土地の守護神でもある城隍神を祭っている城隍廟もあり、多くの人が行き交う場所でした。
陳興盛飯舗の多くの客は天秤棒で油を担ぐ人夫等の肉体労働者。彼らは豆腐を持ち込み、籠の中から一杯の油をすくって、奥さんに豆腐料理を作ってもらっていました。当時のこの料理は红烧豆腐(ホンシャオドウフ)といいます。
红烧豆腐は香り高く、辛く、熱く、痺れる風味が絶妙だ!と、たちまち評判となり、红烧豆腐は食べる人がどんどん増えていき、店の看板料理となっていきます。
陳麻婆豆腐の由来
陳劉氏の作る豆腐は中国全土にとどろき、その味を求めて多くのお客が訪れます。その中に詩人たちもよく食べに来たとか。
陳氏の顔にぶつぶつ(麻子)があることから、红烧豆腐は次第に“麻婆豆腐”と呼ばれるようになりました。そして、店の名前が“陳麻婆豆腐”となったのです。
※ニキビ痕のぶつぶつ(麻子)があるおばさん(婆)=麻婆。
陳麻婆豆腐の継承
陳劉氏には息子がおらず、夫婦が亡くなってからは娘の魯陳氏の婿である魯希智が跡を継ぐ。
【二代目】魯陳氏が亡くなって後は、その子である魯世権が跡を継ぐ。
【三代目】魯世権が亡くなってからは、その妻である陳氏が跡を継ぐ。陳麻婆の三代目の伝承者となります。
【四代目】陳氏には息子がおらず、娘の魯俊卿が跡を継ぎ、四代に渡る経営はすべて女性が切り盛りをしたと言われています。
1956年に老舗飲食店が国有化
陳麻婆豆腐店は1956年に国有企業になり、四川省成都市飲食公司に属します。陳麻婆豆腐店は当初看板がなかったので、客は皆陳氏の顔のあばたを目印にしていました。
商売は繁盛し、徐々に名店として地位を築いた陳麻婆豆腐。そして、1960年代に四川省の著名な書道家の余中英先生が“陳麻婆豆腐”の看板を書き上げました。
豆腐料理を極める陳麻婆豆腐
陳麻婆豆腐店は多くの豆腐料理を創作しています。例えば熊掌豆腐、三鮮豆腐、菱角豆腐、鍋貼豆腐、口袋豆腐。また、豆腐のみを使った豆腐全席や薬膳豆腐など、たくさんの料理を作り出しました。
世界に広がる「麻婆豆腐」
陳麻婆豆腐は次第に海外でも有名になっていきます。1988年と2001年には料理人が日本に行き、国際食品博覧会に参加。日本で“豆腐旋風”を巻き起こします。
1993年には中国料理代表団が日本でパフォーマンスを行いました。陳麻婆豆腐店が作った様々な豆腐料理は、東京、京都、大阪等で一躍注目を浴びました。
多くの海外イベントなどに参加し、四川料理の魅力を海外に発信した結果、「麻婆豆腐」は海外の中国料理レストランで気軽に食べられる料理として、広がっていきました。
海外で唯一、開店をすることを許された日本の陳麻婆豆腐
飲食店を経営するFBDの先代社長は麻婆豆腐の味に惚れこみ「この味を日本へ持って帰りたい」と思い、四川省成都の四川省成都市飲食公司へ交渉にいきました。
そこで、四川省側から出されたのは段ボールいっぱいにある海外誘致の手紙やFAX。「お店の経営だけでも忙しい、これほどの国から誘致が来ている」と門前払い。
しかし、先代社長はあきらめず、何回も陳麻婆豆腐へ通いました。そこであることに気がつきます。麻婆豆腐は人気の料理なので、予め大きな鍋で大量に作ります。その時に一番下の部分が焦げていたのか、出された麻婆豆腐の味に少し苦みと焦げた香りがあると指摘をしました。
厨房の麻婆豆腐を確認すると、確かに下ほうが少し焦げていた。この人たちであれば、伝統の四川料理の味をきちんと提供できそうだ、お互いの信頼関係が少しづつ生まれていきました。
FBDと四川省成都市飲食公司との距離は次第に縮まっていき、ついに2000年、門外不出の陳麻婆豆腐の味を日本でも提供できるようになったのです。
陳麻婆豆腐の実績
「陳麻婆」の商標が四川省工商行政管理局より「四川省著名商標」を受領
中国質量認証標準協会より「国家権威機構認証質量の信頼できる良品」と認定
全国餐飲緑色消費工程組織委員会より「全国緑色餐飲企業」と認定
四川省商務庁より四川省を代表する老舗として「四川老字号」の称号を受領